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他宗の事ながら、創価学会の政治活動について

他宗の事ながら、創価学会の政治活動について


 2025年10月17日の報道をみる限り、先日、自由民主党との連立解消を決定した公明党の支持団体とされる創価学会には、この連立解消について肯定的な意向があるとする論調が多いように思います。
 報道者達の見立てによると連立与党としての公明党を支持する事が利害から考えて有益とは考えられないものとなって来た事を要因とみる意見があるようです。
 確かに、支持団体からみれば、政治的な支援活動は重荷であり、本来の活動を妨げる恐れもあるものであり、過度の負担となるようなものには執着しないのが利にかなった方法かも知れません。
 私からみれば創価学会は他宗という事もあり仏説の解釈等で異なる見解も多く、私は創価学会を批判的に論う事も多かったのですが、報じられているように政治活動に関して、離脱や縮小などの脱執着路線をお考えであるようであれば、私は、その部分に関しては、好意的に評価し、「見直した」と言いたいと思います。つまり、報じられているように、政治的な事柄について不必要な執着が無いか省みて、これを見直そうというお考えがあるのであれば、私は、その部分に関しては創価学会様を称賛いたします。
 私も創価学会様の会員様方が熱心に公明党を支援されて来た事は存じ上げております。しかしながら、現在、政治的な活動は地方の会員様方に取って不相応に過大となり、本来在るべき姿を逸脱しているような例も、しばしば見受けられます。例えば、私の知っていた方で、公明党の地方議員をされていた方がいらっしゃいました。その方は、真宗の檀家で、真宗の檀家会の活動にも積極的に参加されていた方で、ご自宅には真宗式の仏壇がありました。この方は、何も悪意を以って公明党を利用していた訳ではなく、最初は無所属議員でしたが、公明党からお誘いがあり、所属したところ創価学会の方々が応援してくれるので、大変楽であるという風に受け取っていたようです。これは、いわゆる「数合わせ」であり、単なる政略そのものでした。
 そんな、現在の政略と権力、政争に執着する公明党の有り様とは逆に、創価学会の熱心な会員様方は、純朴、健気であり、私が「そちらの宗派とは、鎌倉時代から対立する宗派の檀家であり、まったく変える気はない」といっても、「そうではありません。布教に来たのではありません。今度、出馬される候補者(創価学会会員の公明党候補の場合もあるし、他宗信徒の公明党候補であったり、自民党の場合もある。)について、どう思いますか」と手土産まで持って忙しい生活を犠牲にしているかのように奔走されておりました。
 ひどいようですが、私は、そういった創価学会会員の方々の努力を評価いたしません。機が熟したであろう、今、私は、そういいった方々には、こう言いたい

・在家における世間の者としての活動をではなく、仏法を求める者としての活動は、政治に執着するべきではありません。また、権力や政争に執着すべきでもありません。そういったものに執着して投票の呼び掛けに日々を費やすよりも、まずもって仏法を説きたまえ。
・仏法を説く事が出来ないのであれば、己自身、これを正覚すべく仏法を探求なされよ。
・さもなくば、権力や政争に執着した政治家ではなく、無名、無力であっても、真摯に仏説を探求しようとする世間の者達を支援せよ。

 私の考えで、創価学会会員の方とは対立する争点になる部分に、例えば、「仏教に関心をもってもらうために、寺院などを整備したりする事は良い事であり、それは大仏像を作って芸術性などで感覚に訴えるのも仏教徒としては良い事かも知れない。しかし、寺院や大仏像の建立が目的になり、それに執着してはいけない。仏法の伝承のために大仏像を建立するのであり、大仏像建立が目的となって仏法が単なる手段となるのでは、それは本来の仏教徒の在るべき姿ではない」というものです。創価学会の方々は「大仏像は、いかがなものか」とか、「大仏像は良いが、阿弥陀如来や大日如来は、よろしくはないのでは」といおっしゃっる方もおり、論争になります。しかし、これらは、仏説の解釈に基づく論争であり、仏陀の教えを探求しようと試みたり、他者に、探求を推奨するという大局的な観点では、致命的な差ではありません。
 しかるに、人というのは、無明にまみれた存在であり、「仏法の精神を世に知らしめるべく、政治の分野に介入しよう」と考えて行動を起こしても、油断していれば、人は権力を求め、例え腐敗しても政治組織に依存し、権力と政治に溺れていく彼らを非難する者達への瞋恚を生じ、愚かさと無知に捕われ、容易に、仏法の信奉者ではなく、権力の信奉者となってしまうものです。

 他宗とはいえ、私が仏法に関心を持つ者として、創価学会様にご期待したいのは、次のような事です。

・一人一人が、仏法から心が離れ、権力、政治、政争の虜となっていないかどうか、良く省みてはどうでしょうか。
・政治が主であると思う人達は、政治に関心のある人達だけを集めて独自の政治活動を行っていただいてはいかがでしょうか。仏法に関心のある方々には、政治に関わるとしても、個々人で個々の候補者を判断していただくものとし、政治に関わらず、仏法の探求や、仏門の友である探求者の支援、仏法の精神の広報に専念していただける体制を整えてはいかがでしょうか。

 真偽のほどは不確かですが、聞くところによると、公明党の連立離脱と、創価学会の政治的少欲化の流れを受けて、会員の方々には「これまで政治改革のために熱心に活動して来たのに、これからどうすれば良いのか」という失望や、「自分はなんであったのか」という失望の声があるとされます。中には、仏法ではなく権力への執着心に捕われ、離れられない人達もいるかも知れません。しかしながら、ただ、自己を正しくみる方法を知らず、ただ、本来、政界に正法を普及すべく作られた政治組織が、腐敗と政争の虜となって、逆に政界から宗教組織に持ち込んだ誤った考えに流されている者も多くいるかも知れません。
 唐の書物に「心、ここにあらざれば視れども見えず」という言葉がありますが、そういう苦悩する衆生に言葉をかけるのが、本来の仏門の徒の為すべき事であるはずです。創価学会の幹部の方々は、今、変動する社会に自己を見失うかも知れない会員の方々に、熱心に言葉をかけていただきたい。

・「仏法を探求しよう」と。
・「仏法を説きたまえ」と。
・「仏法を探求する者を支援したまえ」と。



2025年10月17日掲載 
中村寿徳 



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by myself01 | 2025-10-17 13:28