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法句経関連備忘録(第四十三詩)

法句経関連備忘録(第四十三詩)



法句経の第四十三詩は、
[ Na taṃ mātā pitā kayirā aññe vā pi ca ñātakā. Sammāpaṇihitaṃ cittaṃ seyyaso naṃ tato kare. ]というものです。

 Naは否定の副詞で、taṃは「それを」という意味です。mātāは「母」という意味の女性名詞で単数主格です。pitāは「父」という意味の男性名詞pitarの単数主格です。kayirāは「行う」という意味のkarotiの願望法で、ここでは仮定の意味です。aññeは「他の」という意味の形容詞aññaの複数主格で、vāは「〜か」、piは「例え」、caは「〜と」という意味で、「母」、「父」と後方に置かれているñātakāを接続するものとみます。ñātakāは「親族」という意味の男性名詞ñātakaの複数主格ですので、ここまでを「母か、父、他の親族のいずれか、または、それらが一緒になっても、それを行う事は出来ないだろう」と訳す事ができます。
 [Sammāpaṇihitaṃ cittaṃ]は「正しく向けられた心は」という意味で、seyyasoは、語形としては「より良い」という意味のseyyaの奪格ですが、この奪格の扱いは、水野先生の『パーリ語辞典』では「さらによい」という形容詞的な扱いで、中村元先生の『ブッダ・真理の言葉・感興の言葉』でも[ seyyaso naṃ ]を「さらにすぐれたことを」と訳しており、英訳でも[ seyyaso naṃ ]を“one greater good”と訳すのが割と普通である様に思います。通常、奪格の解釈は、どこかから出てしまったり、超えてしまったりするものとして副詞や形容詞的な働きをしますが、これは『パーリ語辞典』にある様な「さらによい」という表現とは、一見矛盾する様に思えますが、多数の訳者が『パーリ語辞典』と同様の見解を取っている様に思います。この解釈としては「良いどころではない(「良い」という言葉を超えていり)」という様な意味合いで、この奪格を捉え、意訳として「さらによい」という意味に取るのが妥当である様に思います。辞書で“adverb”(副詞)というされているものもありますが、パーリ語の場合、副詞と形容詞は同語形が多いので、これは気にせず、naṃに係る形容詞とみる事にします。また、「それより」という語を補って「それよりさらに良い事を」と訳す事にします。
 [ naṃ tato kare ]の部分は第四十二詩と同様に「〜事を、おのずと行うであろう」と訳す事にします。また、前半の文と後半の文を繋ぐ為に、「しかし、」という語を補う事にします。したがって、

[ Na taṃ mātā pitā kayirā aññe vā pi ca ñātakā. Sammāpaṇihitaṃ cittaṃ seyyaso naṃ tato kare. ] は、

「母か、父、他の親族のいずれか、または、それらが一緒になっても、それを行う事は出来ないだろう。しかし、正しく向けられた心は、それよりさらによい事を、おのずと行うであろう」



※ “one greater good”という訳は、Treasury Of Truth: Illustrated Dhammapada (Ven. Weagoda Sarada Maha Thero, 1993)



(令和5年3月12日掲載 中村寿徳)








by myself01 | 2023-03-12 11:10