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本居学との出会い

【国学との出会い】

 国学というと、本居宣長以前の国学とは相当に異なる平田篤胤の平田派国学や、国学者というよりは漢学も含めた学生であった吉田松陰(この人物は本居宣長の著作を読んで影響を受けた、として国学者に含める人もいますが、儒学的な思想の影響も感じられます。また学生というよりは行動派の活動家としての逸話の強調される人物と言えます。)を思い浮かべるかも知れません。

 実は自分も十代の頃は、そう思っていたものです。「尊王攘夷」や「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」というのも国学に由来する思想であると思っていましたが、「尊王攘夷」は漢学の文脈からの言葉であり、本居宣長も仏教批判は行っていますが、明治期に見られた様な極端な「廃仏毀釈」も、やはり漢学の分野で成長したものであり、仏教批判に関しては漢学者は江戸初期から相当意識があったようです。

 さて、その国学の分野で比類なき成果を誇るのが紀伊国の国学者、本居宣長です。本居宣長の業績の中でも卓越した国文法の知識を活用して、当時は最早、価値を見出す人が絶えてしまっていた『古事記』の解説に成功した事が評価されており、現在に至って二百年以上前の研究であるにも関わらず、研究手法も文法的な解釈も極めて正確で現在に通じるものである事が分かって来ています。むしろ本居宣長存命中は、『源氏物語』などを学問の対象にする「女々しい者」という風に漢学者や一部の国学者から批判され、また逆に、幕末から明治、果ては近年に至るまで攘夷運動に利用されたり、政策の理由付けに利用されもしましたが、曲解も少くはなく、本来の本居宣長の論が率直に受け入れる機会は少なかったようにも思われます。

 そんな本居宣長先生について初めて、ほんの少しの関心を持ったのは十代の頃でした。もちろん、本居宣長が有名な国学者であると言う事は教科書などで知ってはおりましたが、関心というような関心はなく、そもそも国文学や歴史にはあまり関心がなく、せいぜい郷土史に関心があった程度です。

 ただ、当時の歴史の教員の方が、地元でも有名な研究家で、特に発掘調査に関しては相当な人物であり、私も感心するところがあり、授業以外でも色々とお話しをうかがったりするなどして懇意にしていただいたという事もあります。例えば、古代に於ける農耕、それに関連して教科書の元になる指導要項の事、では当時の要項では縄文時代になかった農耕が弥生時代に入って一気に普及した事になっており、「あまりにも普及するのが早すぎ」という疑問に対して、しかしながら、歴史の場合ははっきりした根拠がないと指導要項に反映させられないじゃ(先生も「確かにこれは、おかしい」と思っていた御様子でした。)、というような説明を聞いたりもしました。(これは、すぐ後に「縄文時代の畑が発見される」という出来事があり、先生は「指導要項変更する。文部省の委員をしてる友人から決まったと聞いた」と教えてくれたのを憶えています。)

 私の郷里には延喜式神名帳(延長5年:西暦927年)にも記載のある紀伊國須佐神社という神社があり、古くは元明天皇(在位707年 - 715年:平城京遷都や藤原氏の重用、古事記の完成などを実現)の勅願を受け、後醍醐天皇は建武2年(1336年)に震筆勅額及び兵杖四本を奉納するなど熱心に崇敬され、楠木正成公に至っては神社からほど近い場所にあった荘園を寄進するなど大変な信仰のあった神社で、どういう歴史があるのか気になっていたのですが、たまたま、その先生の実家が紀伊國須佐神社の社家を務る家であったので、お話を聞く機会もあり、その際に本居宣長が、その神社で講義をされたという事を教えていただき、その時、詠んだ歌などについて聴かせていただきました。

 結局、この口伝を社家の出身の方から聞くという、地方らしい場面が、初めて本居宣長先生の存在を意識する最初の場面となったのですが、当時は本居先生の著作を読むまでには至らず、そのままになっていました。(自分でも不思議ですが、なぜか本居宣長ではなく平田篤胤の著作を読んで、飽きて国学をつまらないもののように思い込んでいたように回顧される。)

 そんなこんなで、最近になって、本居先生の著作を手に取って見ると、意外にも見落としていた大事な点がつぶさに指摘されていて見落としていた大事な観点に溢れるものであったので、なんといいますか、価値を再確認した次第です。

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紀伊國須佐神社、寛政6年(1794年)の冬、本居宣長がこの神社で講義を行った。(写真はWikipedia https://ja.m.wikipedia.org/の画面画像。)


(2016.11.28 中村寿徳)





by myself01 | 2016-11-29 07:14